藤沢野焼祭について

  この資料は、「国土庁長官賞」「地域づくり全国交流会議佐世保大会実行委員会長賞」受賞のプレゼンテーション用に作成したものです。(平成11年11月18日)

◆なぜ縄文野焼

 昭和46年夏、「藤沢町で陶芸をやりたい」と風貌のおかしな青年が訪ねてきました。当時は過疎の最盛期、出て行く人が多いのに藤沢町に来たいとは大変貴重な人であると簡単に結論が出た訳ではありませんが、廃校に住居を構え、窯を建設するための補正予算が臨時議会で可決され、「藤沢焼」が誕生しました。
 焼き物の原点は、「野焼」である。昭和51年、藤沢焼の窯元が提唱し、土器を創り、露天で焼き上げる最も簡単な手法「野焼」を開催したのが第1回でした。
 日本の文化の原点は、縄文時代にあります。この時代に生きた私たちの先祖は、豊かな自然の幸に恵まれ、自然と共に生活していました。また、精神的にも深く、かつ高度な文化を持ち、岩や火や木をはじめとする森羅万象全てに宿る神を敬い、自分たちの魂を見つめて生きてきました。これらのことを私たちに端的に教えてくれるのが、世界で最も古く偉大な芸術作品である縄文土器です。有名な火焔土器、水焔土器はもちろん、素朴な文様の土器の中にも、土と炎と風とに神の働きを感じ、土器に祈りと願いを込めていた縄文人の心が伺えます。
 赤々と燃え、夜空を焦がす炎は、私たちが忘れかけている自然への畏怖と自然への祈りが甦ってきます。まさに「縄文の炎」なのです。
 これといって、藤沢町を代表する祭りがなかった町にとっては、この「縄文野焼」を藤沢町を代表する祭りにするため、町をあげて取り組みが始まりました。
 
◆いろいろありました、来年は25回
 藤沢野焼祭は今年で第24回を迎えました。当初の参加作品数は300点、現在は5倍の1,500点を超えています。
 当初は、窯元や地域住民、商工会青年部等で実行委員会を組織し、実践考古学者の塩野半十郎氏の指導を仰ぎ、窯や縦穴住居を造りました。参加者は、200名程度で陶芸に興味のある人たち、特に仙台方面からの参加者が大半でした。
 イベントの開催は、地域の持つ個性を外部に主張し、地域の存在意義をより確かなもの、普遍的なものにすることです。藤沢野焼祭の個性は、「縄文」にあります。祭りに参加するみんなが主役であることを基本とし、自分たちの手でイベントを企画し、協賛金を集め、祭りの準備をし、夏の夜空を焦がす赤々と燃える縄文の炎を焚き続ける。感動をみんなで創っていく、このことが祭りを継続する原動力となっています。 藤沢野焼祭は、5年毎に記念大会を開催しています。特にも、平成2年の第15回記念大会には、岡本太郎氏、池田満寿夫氏も参加し、「縄文野焼サミット」を開催しました。「縄文土器といえば岡本太郎」、世界に縄文土器の芸術性を認めさせた巨匠です。そして「芥川賞作家のマルチ芸術家池田満寿夫」、両氏ともたった一回の参加ですっかり藤沢野焼祭の応援団になってしまいました。
 祭りには、太鼓と踊りが定番であることから、手作りの土器製太鼓を造り「藤沢縄文太鼓」を結成し、縄文服(夏仕様)も造り、そして「縄文踊り・もんじょりどー」も作曲・振り付けをし、長野県諏訪神太鼓とのセッション、フィジー共和国のフィジアンダンスとの共演など文化交流を進めています。また、今年は、老若男女誰でも気軽に参加できる踊りとして、アップテンポ・バージョン「ラジル de もんじょりどー」を制作し、野焼祭で披露したところです。
 平成9年12月、藤沢野焼祭の開催を通じて地域文化の創造と交流の促進に寄与し、地域社会の発展に尽くした功績により、岩手県知事から功績賞を受賞しました。           
◆ここには縄文人がたくさんいる
 藤沢野焼祭は来年で四半世紀、第25回を迎えます。年一回のイベントですが、今までに生まれた作品の数は33,507点に及びます。作品の中には、審査員も驚く現代縄文芸術作品もありますが、世界に一つしかない自分の作品、しかも野焼きという最も原始的な手法で焼成した作品は、生涯の宝物となります。イベント開催による効果はまちづくりのハード・ソフト両面に大きく寄与しています。
 特に、ソフト面として、藤沢野焼祭には全国に大勢の応援団が生まれています。生前の岡本太郎先生、池田満寿夫先生も熱心な応援団でした。ポスターの制作を担当したり、仕事仲間や友人を誘って手弁当で祭りに参加したり、どんどん輪が広がっていきました。
 池田満寿夫先生は、「全国には、いろんなイベントがあるが、これだけ町民が一体となった祭りを、私は知らない。縄文の炎に包まれ、本当に興奮させられた2日間だった。」と感激し、作品の寄贈の他に、日本各地の講演では必ず、藤沢野焼祭に触れていただきました。
 岡本太郎先生からは、「ブロンズ彫刻・縄文人」を寄贈していただきました。その時のメッセージが台座に刻まれています。「ここには縄文人がたくさんいる。私の願いは、ここから縄文人をどんどん増やして、日本中、世界中、あの祭りに参加している皆さんのような、生き生きとした顔、動きが宇宙に満ちていく、その原点・藤沢であってほしいと思います。」(岡本太郎)と。この言葉こそ、藤沢町民に大きな自信と誇りを与えてくれました。文化会館を建設する計画が浮上したとき、岡本太郎先生は、「縄文ホール」と命名し、緞帳のデザイン「炎」を送ってきました。日本の公立ホールで、岡本太郎の緞帳を使用しているのは藤沢町だけです。しかも寄贈作品です。  ハード面では、野焼作品の制作が可能な「陶芸センター」、そして「陶芸創作館」が整備され、年間を通じて陶芸家の指導を受けることができます。宿泊施設として「グリューンボーデン館ヶ森」、「ファミリーオいわて藤沢」が建設され、滞在・体験型の観光も可能となりました。
 藤沢町内だけでも、毎年1,000点近くの作品が生まれます。商店街に小学校や中学校、地域の作品を展示しています。商店の軒下に縄文土器や埴輪、怪獣等々。行き交う自動車の運転手や同乗者は不思議に見入り、商店街が「町並みギャラリー」と化しています。もちろん、町内の幼稚園・保育園・小学校・中学校・高等学校・病院・役場そして個人の庭先にも野焼きの作品が飾られています。縄文野焼祭が藤沢町の文化になりつつあります。
 
◆世界の縄文野焼祭を藤沢町で
 藤沢野焼祭の会場は、藤沢中学校のグラウンドを使用します。そのため、毎年ビルド・アンド・スクラップの繰り返しとなります。常設会場の建設にも賛否両論です。縄文の里テーマパーク建設論の推進派がいれば、夏が終われば姿を消して、また次の夏に姿を現す。毎年毎年の個性を現すことが大切と、反対派の論。応援団を含めた論議がもう少し続きそうです。
 世界各地に縄文土器があります。野焼きをしている民族が藤沢町に集い、自ら焼成方法で祭に参加する「世界の縄文野焼祭」を開催すること。世界への情報発信、国際色豊かな祭りに成長させることが当面の目標であり、数年前からドイツ、フィジーから陶芸家や研修生を招聘し、試行を続けています。